この記事は前号でご紹介した記事「ウォーターゲート事件も霞むニクソンとサンプソン合意」に続くウォーターゲート事件の大統領アーカイブズへの影響に関する4回シリーズの2回目です。 December 19, 2024、1974年8月にリチャード・ニクソン大統領が辞任した際、彼はニクソン・サンプソン協定として知られる一般調達庁(GSA)との協定に署名した。簡単に言えば、この協定によってニクソンは退任後も大統領の資料を保管するできるようになった。これには、大統領時代のあらゆる政治文書、写真、録音された会話が含まれる。また、10年後、あるいはニクソンが死亡した場合のどちらか早いほうに、これらの会話テープは破棄されることになっていた。 特にこの条項は、政治、歴史、アーカイブズの各界に激怒を巻き起こした。議会の公聴会で、ゲイロード・ネルソン上院議員(民主党、ウィスコンシン州選出)は、ニクソン=サンプソン協定について、"ニクソン氏が明日死んでも、これらのテープは......直ちに破棄される"と述べ、懸念を表明した。 ゲイロード・ネルソン上院議員の解決策: 大統領記録物保存法(PRMPA)である。 PRMPAとは? 1974年9月18日、ネルソン上院議員はPRMPAを上院に提出した。この法案は、ニクソン大統領の資料を国立公文書館が保管することで、ニクソン-サンプソン協定を根底から覆すものだった。また、ニクソンの資料は司法手続きに直ちに利用できるようにし、最終的には一般に公開すると規定した。
上下両院はPRMPAを可決し、12月19日、ジェラルド・フォード大統領が法案に署名した。PRMPAは、大統領資料の所有権を規制する最初の法案として歴史に名を刻んだ。当然リチャード・ニクソンはこの立法による解決策を快く思っていなかった。 PRMPAの余波、PRMPAが法律として署名されたわずか1日後、ニクソンは新しい法律に異議を唱えるため、コロンビア特別区連邦地方裁判所に訴訟を起こした。ニクソンは、PRMPAは不当判決であり、裁判を経ずに自分に課された不当な罰であると主張した。 連邦地裁はニクソンに不利な判断を下し、彼の訴えを『根拠がない』と断じたため、彼は別の場所で争うことを余儀なくされた。そこでニクソンは最高裁判所に訴え、1976年にニクソンに審問を認めた。 ニクソン対GSA長官訴訟の結果は、基本的に前回と同じだった。最高裁は7対2でニクソンの訴えを支持する有力な判例がないことを理由に、地裁の判決を支持した。この裁判はニクソンにとっての個人的な損失以上の意味を持つものであり、大統領の歴史保存の流れを変える重要な出来事になった。
ニクソン対GSA長官判決を受け、PRMPAは大統領資料の規制の扉を開いた。PRMPA以前には、大統領が退任した後の文書を管理する法律は存在しなかった。規制に最も近いものは、1941年にフランクリン・D・ルーズベルト大統領が最初の大統領図書館を設立した時だった。しかし、大統領図書館の設立は任意であり、強制ではなかった。1974年まで、大統領資料の保存を導く唯一の原則は信頼と伝統だった。ニクソンがその信頼を崩した後、議会は状況を変える必要があると判断した。そこでPRMPAの登場である。 PRMPAはニクソンにのみ適用されたが、元大統領を超える条件も含まれていた。PRMPAは、連邦政府高官の記録と文書に関する国家調査委員会(通称、公文書委員会)の設置を求めた。この委員会は、今後すべての大統領の記録をどうすべきかを決定することを目的とした。 1977年、委員会は議会と大統領に調査結果の報告書を提出し、1978年までに議会はその調査結果に基づいて大統領記録法(PRA)を可決した。PRAは、大統領記録はもはや私有財産ではなく、国民のものであり、大統領が退任した後は国立公文書館に保管されるとした。 https://prologue.blogs.archives.gov/2024/12/19/more-than-watergate-the-prmpa/ |